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2010年02月12日

赤い靴



横浜に行った方からお土産をいただきました。
赤い靴の形をしたチョコレートです。

「赤い靴」で思い出すのはこの歌です。
野口雨情の作詞で有名なこの歌は哀調を帯びてた曲とともに心に残ります。

赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに 連れられて
行っちゃった


私の小さい頃、異人さんと言う言葉を知らずに、「良いじいさんに 連れられて」とか「ヒイじいさんに・・」
とか聞こえていました。
良いじいさんに連れられて行ったにしては悲しげな歌だなと思っていました。

調べてみると実話がもとになった歌だそうです。
この歌は作者野口雨情が、この赤いくつの少女の母親から直接聞いた話をもとに歌ったもの。

雨情の家族と木の母親の家族とは一つの家を2家族で借りて住んでいた。
母親はやむを得ず手放したわが子への思いを断ち切ることができず、後悔の念にさいなまれていたのでしょう。

少女の名前は「岩崎きみ」。
明治35年7月15日清水市の宮加三に生まれた。母親は「かよ」といいます。

この歌は実お話だったのです。
赤いくつの少女は横浜の波止場から、異人さんに連れられて遙か異国の地へ行ったのだという。
かよはきみちゃんにどれほど会いたかっただろう。

幼いきみちゃんはどれほど母親に会いたかっただろう。
しかし、ついに二人は2度と生きて出会うことはなかったらしい。

きみちゃんは私生児としてこの世に誕生したが、婚姻関係になかった父親の佐野安吉はきみちゃんを籍にいれる前に刑務所へ行ってしまった。
母親の岩崎かよは一人できみちゃんを育てるが、結局最後は北海道で出会った鈴木志郎と結婚するため、「お前の幸せのためにきみを養子に出せ」という安吉に預けてしまう。
戸籍上きみちゃんは2年後にこの佐野安吉と養子縁組をしたことになっている。
名前は「佐野きみ」となった。

かよはさんざん迷ったあげくきみちゃんを手放してしまったのだった。

安吉はそのままきみちゃんを、当時日本に来ていたアメリカ人宣教師に預けることになる。
わずか3才だった少女は自分がもらわれていくことなど夢に思ってはいなかっただろう。
まして今までにおそらく見たことがないような異国の人であった。

それから宣教師の仕事のため、日本に戻ることになるが、当時不治の病とされていた結核にかかり育ての親の宣教師がアメリカに帰る時に船の長旅に耐えられる身体ではなかった。

6歳にして育ての親とも離れ離れとなってしまい、病気で亡くなった。
きみちゃんと母親のかよはついにこの世で会うことがなかった。

この事実を知ったきみちゃんとかよの生まれ故郷である静岡県清水市に「せめて今こそこの場所で親子を再会させてあげよう」という地元の人々と全国からの多くの賛同者の協力を得て昭和61年3月に「赤い靴」母子の像が建立された。海が見える日本平山頂にこの像は建っている。



  
タグ :赤い靴


Posted by ユジーン at 00:00Comments(2)